自分は自分しか知らない
やはり自分は“自分”としてしか生きることができないから、どうしても自分の中の正義がすべてになってしまいがち。
仕事をしていても私生活の中でも普通はこうなんじゃないの?と思うことがある。
なんであの人は当たり前のことがわかってないんだろう?とか。
でも他の人だって自分にとっての常識とか当たり前のこと通りに行動してるはずで、その人から見たら私もなんかあの人考え方変とか思われてるんだろうなというのもわかる。
客観的な視点で自分を見る努力
育った環境も影響を受けた人物も、みんな違うから考え方は人それぞれ。
それをわかっているつもりでもついつい忘れてしまうから時々意識して自分を俯瞰で見るようにしている。それはとても難しいことだけど。
例えば今自分が幸せか不幸せか?という事ひとつ取っても、おひとりさまのまもなくアラフォーってのは周りから見たら不幸せに見えるかも知れないけど、本人からしたらそこについては特に不幸せを感じてなかったりするし。
派遣切りに遭って家でゴロゴロしてるのに飽きて近所をふらふら散歩しるときにふと「虚しい・・・」って思ったりするけど、意識して俯瞰で自分のことを見てみると派遣切りに遭ったとはいえ、会社都合で辞められたことで失業保険すぐもらえて比較的じっくりと転職活動できてて呑気なもんだな~と思えたりする。
相手が100%正しいという事も自分が100%正しいということもない
考え方がそれぞれ違うので、自分が正しいこともあるだろうけど相手が正しいこともあって、だけど自分が間違ってると気づいた場合以外は無理に相手に合わせることもないとは思ってます。
本当の正解なんて誰にもわからないから。
私自身も若い頃は、ちょっと違う・・って思っても自分の考えが間違ってたんだなと思う癖があって、そのころは何が正解なのか全然わかんなくて精神的にしんどかった。
段々と、自分が正しいと思うことはそれを信じていればいいやと思うようになったら楽になりました。
その代わり、自分の意見を押し付けない。決めつけない。
自分が共感するときはそれを表に出すこともあるけど、共感できないことはその反論とかを表に出すことはしません。
自分フィルターしか通してないことで、善か悪かなんて決めつけることが怖いです。
ちょっと前に問題になった、高校生が先生にわざと殴らせるように仕向けてyoutubeに動画あげたアレみたいに、前後にも当人にしかわからない事実があるかもしれないからたまたま自分が見た一瞬だけで決めつけないようにしています。
そういえば、どこかのブログにムロツヨシさんの謝罪について「あれは無理がある。いつサッカーの話題が出たんだよ?苦しい言い訳だった」と書いている方がいたんですけど、私はあれは言い訳ではなくて本当にサッカーについてのツイートだって思っていました。
だって、あのツイートはサッカーアジアカップ決勝の試合終了直後につぶやかれたものだったから。
私もリアタイで試合を観てたので「お、ムロさんも今サッカー観てたんだ~」って思ってました。だからその後に謝罪されたときに、逆にびっくりでした。
思い込みって本当に難しいし、怖い。
それに最近特にSNSをみんながやってる時代で、誰かがしくじると一斉攻撃が始まる。批判することばかりに一生懸命になってる感じがすごく嫌だな~って思います。
自分が「この人間違ってる!」って思ってもいちいち表に出さないほうが良い。
悩みを周囲に話しにくいお年頃・・・。
上にもちょっと書きましたが、おひとり様ってこと自体には実はそこまで真剣には不幸せに感じてなくて悩んでないけど(今のところはね)それでも「どっかに出会いないかなぁ」なんてことを気軽に言うのも難しい年ごろじゃないですか?
同じような私生活を送ってる友達同士でグダグダ話してる分には良いけどそうゆう相手も年々減っていくばかり。そうすると発散させたい心の闇がどんどん増えて、どんどん濃くなっていくばかりなんですよね・・・。
最後に相談できる相手は自分自身
自分なら自分のこと一番わかっている。
それと同時に、自分のことだからこそ一番わかってない。
私がやることは“この悩みを友達が私に相談してきたらなんて答えるだろう?”と考えます。自分のことはいつまでもウジウジ考えちゃう割に、友達相手だとちゃんと一緒に考えてあげることができたりするから。
友達に相談されたらって仮定して、自分が友達にかけてあげたい言葉をそのまま自分に返す。失敗することもあるけど、少しは心が楽になることが多い。まさに自問自答。
知らず知らずに自分中心になってしまって、必要以上に落ち込んだり、違和感を思った物事に対して攻撃的になってしまったりしないように。
今日も私は、意識してぎゅーっと凝り固まってる心を開放する。
↓ポチッと押していただけるととっても嬉しいです☆